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2012年 04月 04日
私達の家には小さな庭があります。この数年間の園芸のまねごとの努力も空しく、数々の花々を枯らしてしまっていました。内心あきらめていた去年の秋頃、 私達の下手な園芸を気の毒に思ってか、ある方が植木鉢をくださいました。 「これは君子蘭という花で、これなら丈夫であまり手がかからないし、暖かくなったら花が咲きますよ。」正直なところ、君子蘭という名前を聞いたのも初めてで、もらった当初は分厚くて長い緑の葉っぱばかりで、花を咲かしそうな気配が全くなく、果たして本当に花が咲くのだろうかと疑心暗鬼でいたのです。ところが先々週辺りからつぼみが出始め、今日はなんと14個ものきれいなオレンジ色の花が咲きました! 早速くださった方にご報告のメールを書こうとしたところ、懐かしい友人から約3年ぶりにメールが届いていました。ニューオーリンズで働いていた彼女は、不運にもハリケーン・カトリーナに被災して家と仕事を失い、夫婦でロサンゼルスに移住してから、家族ぐるみで親しいお付き合いをしていました。いつもとても明るくガンバリ屋さんの彼女でしたが、被災したときの事を思い出すとまだ涙がとまらないと私達に話してくれた事があります。心にはまだ癒えない傷を抱えていたことが気がかりで何かサポートできたらといつも思っていました。 そして彼女がご主人のお仕事のために南太平洋のある途上国に移住することになったのは4年ほど前のことでした。ご主人のお仕事とは言え、生まれたばかりの赤ちゃんと全く馴染みのないところに移住すると聞いて正直「大丈夫かな」と心配でした。最初の1年間はメールのやりとりもありましたが次第に連絡も減り、「不運にもまたも不可抗力なトラブルに見舞われ日本に帰らざるを得なくなった」というメールを最後にここ3年ほど全く連絡がとれないままでした。 久しぶりの彼女のメールからは日本での充実した幸せな日々の様子が伝わってきました。最初は大変だったがとても良い仕事と新居にも巡り会えて今は3人でとても幸せに暮らしています、というメッセージの最後にあった家族写真の3人の輝かしい笑顔を見て、あの君子蘭を思い出しました。 長い冬を耐え抜いてついには咲いたあの鮮烈なオレンジ色の花は、まさに彼女のことと思います。雨の日も風の日も希望を失わずに耐え抜いたことが出来たからこそあんな笑顔になれたのだな、と庭先の君子蘭を眺めていると、20ヶ月の娘も咲いた花を見ながら手の平を開いて、「オープウン」と習いたての言葉を披露しました。 2012年 02月 25日
![]() 19ヶ月になった娘が、最近やたらと目をこすっていることに気づきました。その頻度といい激しさが増して来たのでかかりつけの小児科医に見せることにしたのです。そして血液検査の結果、なんと猫アレルギーだということが判明しました。 実は、娘を預かってもらっているホームデイケアで猫を2匹も飼っていたのです。急遽デイケアをかえる事になりました。新しく決まったところは以前の少人数のアットホームな感じとはうってかわって、16人もの園児がいる大きなセンターです。家内と私が初めて娘を預けた朝、自分一人残して去って行く私達を見ながら、娘は小さな身体を震わせながらありったけの力で泣きました。そんな娘を見て、まるで胸が押しつぶされるような心境でした。迎えに行ったその午後もまた、遠くから私を見つけた娘は、恨めしそうな嬉しそうな複雑な表情で泣きながら胸に飛び込んで来るのです。 娘の健康のため断腸の思いで決行した「涙の送り迎え」を一週間続けて、やっと慣れて来た気配がし始めたその週末、娘は生まれて初めての高熱を出しその後の1週間デイケアをお休みしなければなりませんでした。私達からすれば、やっと慣れて来たのにすべてが振り出しに戻るような感覚でした。しかし、風邪が治ってからデイケアに戻った娘になんだか一皮剥けたような大きな変化がありました。 「涙の送り迎え」から徐々に涙が消えて行くにつれて、デイケアのたくさんの子供達と遊ぶためか以前よりうんと食欲が増し、夜もぐっすり眠るようになりました。何だか社会性も身に付いたようで一段と成長したことを実感しました。今考えると、娘にとってその時はつらいとしか思えなかったことが、実は後の成長に欠かせない肥料となって行ったのだと思います。 そう考えると私達大人の世界においても同じことが言えるような気がします。何かを失ったことがかえってもっと大事なものを得るきっかけになったり、困った時にこそ真実な理解者や支持者を得ることができたりするのではないでしょうか。試練や困難の中にこそ成長のための糧が秘められているんだね、と夕食時のおしゃべりを楽しんでいる時、急に娘が耳をこすり始めました。「ひょっとして中耳炎?」またも新たな成長のきっかけの始まりです! 2012年 01月 23日
![]() 今月で18ヶ月になった私達の娘は、おぼつかない手つきで何とか自分でもご飯を食べられるようになりました。また、私や家内に自分の食べ物を差し出して食べてもらうのが大好きなようです。美味しそうに食べて見せると、とても満足げな表情で笑うのです。自分に必要なものはすべて人から与えられる他なかった娘が、人に与えたいという気持ちを持ってくれるようになったことをとても嬉しく思いました。 日本で大学に通っていた頃、バングラデシュにある識字教育を行うNPOに研修に訪れたことがあります。夏休みの2ヶ月間、ダッカにあるそのNPOのオフィスに寝泊まりしながら、各地の識字プログラムを見学させてもらっていました。時々プログラムがない時は、オフィスに留まってランチをいただいていました。オフィス管理人の奥さん手作りの美味しいカレーは、いつもボリューム満点で鶏肉が沢山入っていました。「こんなに沢山は食べられません」と伝えると、「食べられるだけゆっくりと召し上がって」といつも言われていました。 研修旅行も終わりに近づいたある日の午後、いつものようにオフィスの食堂で美味しいカレーを思う存分堪能してダッカ市の図書館に出かけたのですが、たまたま忘れ物に気づいてオフィスに戻った時のことです。管理人さんご夫妻と3人のスタッフの方がオフィスの食堂で私が残したカレーを食べていました。彼らはまずゲストにあるだけの食事でもてなしてから、その残りを食べることを人の道理としていたのです。とてもショックでした。最貧国の一つである国に支援のあり方を学びに来ていたはずの自分が、現地の人々の貴重な食事をぱくぱくと必要以上に大食いしていたのです。 私はその週末、管理人ご夫妻をはじめスタッフとそのご家族を全員ダッカ市内のチャイニーズ・レストランに招待しました。(困った時に使うようにと父からもらった餞別がこんな時に役に立つとは思いませんでした。)楽しい会話の中、皆さんにそれまでのお礼とお昼ご飯のお詫びを述べたところ、「私達は、旅人をもてなす心を持ちなさいと教えられています。あなたが沢山食事をされて残りが少なかった時ほど、私達が神の教えに忠実であることを確かめられてとても嬉しかったのです。」と一人のスタッフに言われたことを未だに忘れられません。 自分のよだれでべとべとになった赤ちゃん用せんべいをしきりに勧めてくる娘をみながら、バングラデシュで出会えた貧しいながらも人に与える喜びを知っている心豊かな人々のことを思い出しました。 2011年 12月 23日
![]() もうクリスマスかと思うと改めて月日の経つ早さを想います。クリスマスというのは毎年決まった時に決まったことをする恒例行事のように思えて、不思議なことにいつもワクワクしながら待ち遠しく感じてしまうところがあります。 キリストの誕生に関する聖書の箇所を見てみると、キリストのお生まれを待ち望んでいた当時の人々の様子が生き生きと描かれています。自分の財産や仕事はもちろん、中には自分の命の危険をも承知でその誕生に立ち会うために行動した人々についても書かれていました。ただ待っていたというのではなく、「切望していた」と言った方がぴったりくるかも知れません。 ふと、今何かを心から切に待ち望んでいることはあるだろうかと思いました。「待たないで済むことこそが幸い」と豪語するように到来する新しいテクノロジーやサービスによって、もはや列に並んで順番を待つことすらなくなって来つつある社会において「切望」とはすでに死語になっているのかも知れません。 先日、私達の娘がお世話になっているホームデイケアの方に聞いたのですが、朝預けられた娘は午後になると玄関の方を意識しながら遊んでいるようです。それは呼び鈴を鳴らし迎えに来てくれるママの胸に飛び込んで行ける体勢を整えつつママのことを切望しているからなのでしょう。 20年も近く前の話ですが、徴兵で韓国の軍隊に入っていた時のことを思い出しました。色々な制限によって全く自由がなかったその灰色の思い出ともいうべき3年間、私は自分の日課の一つとして小さな手帳のカレンダーに毎日バツ印を付けていました。束縛の中にあっても、除隊の日、自由になる日を切望することによって希望を持って苦しい日々を耐え抜くことが出来たのではないかと思います。 自然災害や未曾有の経済危機によって世界全体が打ちひしがれた今年であっても変わることなく新しいクリスマスがやって来ました。どのような一年であったとしても理想の明日を切望する希望を持つことができるということを、今年もクリスマスを通して思い起こしたいと思います。 2011年 12月 09日
![]() 私たち、日韓夫婦にとっての初めての子育てが始まり、早1年と5ヶ月が過ぎようとしています。一般的に「子育て」というと、親が子どもを苦労して育てるといったイメージがありますが、我が家では親もまた子どもに育てられているような気がします。 その証拠に、子どもが生まれるまでは目覚まし時計を使っても「目覚めること」において極めて無力であった家内が、今では、真夜中に娘が立てるちょっとした音にも反応してバネのように起きられるようになりました。つくづく「母性」というものの素晴らしさに感嘆してしまいます。 私はといえば、 実は娘が生まれる前までは、子どもとどう接すればいいのかがよく分からなくて、近所の子どもと目が合うだけでも気まずく感じてしまいがちでした。それが今では外で赤ちゃんを見かけると、赤ちゃんやお母さんに自然と話しかけられるようになりました。今思うと、娘が生まれる前の自分は随分と未熟な大人だったのだと恥ずかしくなります。 おそらく他の赤ちゃんも同じだろうと思いますが、娘は与えられたおもちゃよりもメガネや携帯電話など大人の所持品で遊ぶのが好きです。親が絶対に触ってほしくない物ほど手に入れたい欲求は強くなるようです。遊んでほしくない物は、娘の手が届かないソファやテーブルの上に置くようにしていました。娘が一生懸命にソファに登ろうとしてもことごとく失敗に終わるのを見ながら、「ここでよし」と安心していたものです。 それがある日、その絶え間ない挑戦が実を結んで、ついに一人でソファに登った娘のその瞬間を私は目撃しました。もはやソファは安全な場所ではなくなり、「登ろうとして落ちたら危ない」と教え込むほかないと一生懸命に言って聞かせたりもします。しかし、自分が「したい」ことは、親の意に反してもやってしまうものです。案の上、転んで泣いている時もあります。 娘は親の規制や制限をものともせず、常に自己実現を果たすために外へと向かって飛び出して行くのです。娘の自由意志には、決して諦めない「勇気」と同時に、親にダメと言われてもチャンスさえあれば実行するぞという「愚かさ」もあります。しかし、未熟な親に成長する機会を与え、「勇気」と「愚かさ」の混在という普遍的な人間の姿の理解を深めてくれる我が娘に、今日も夫婦揃って育ててもらっている気がします。 2011年 11月 01日
![]() 先日うちの教会に通っておられる方から、「先生、来週説教される聖書の箇所を予め教えてもらえませんか。前もって読んで予習をしておきたくて...」というリクエスト受けて、少々困ってしまいました。正直なところ、そんなに真面目な性格ではなく、前日ギリギリにならないと決まらないのです。それで困ってしまったのも理由の一つですが、主な理由は「予習」がもたらすネガティヴな影響を懸念したのです。 確かに学校の勉強で「予習」というと非常にポジティブな響きがあります。しかし、それがただ単に自分が経験していないものを、誰かの意見を通して先に知るという意味での「予習」であれば、先入観や偏見を身につけるための「予習」で終わってしまう時もあるのではないでしょうか。 どこかで聞いた話ですが、ヨーロッパのある国では映画劇場の外にチケットを求めて列を作っている人々を対象に“闇チケットの売人”ならぬ、“闇情報の提供者”(?)がいるそうです。例えば、サスペンス・スリラーものなどの映画を観る前の観客に近づいては、「誰が犯人で、どういう結末なるかを聞きたくなければ、小銭をくれ」という何とも面白くスケールの小さな犯罪なのです。 私達は、映画、ドラマ、小説のような物語に関しては、どんなに長い時間をかけてでも、お金を払ってでも、直接体験したいという欲求があります。しかし、実際に自分の人生に関わる大事な事柄に関しては、わざわざ自分で体験することなしに、むしろ誰かの意見をそのまま鵜呑みにして済ませた方が楽だと、思うようなところがある気がします。 特にロサンゼルスのような多人種多民族のメルティング・ポットに生きていると、人種や民族、文化や価値観の違い等に関して「予習」で済ましてはだめだなとつくづく思うことがあります。むしろ、いい加減な「予習」で知っていたことが仇となって、逆に相手を理解することへの妨げになることもしばしばです。 「みんなそういっている」といった類いの通念を学習する「予習」ではなく、 「自分がすでに知っている」と思っていることに対しても、もう一度よく見て感じて、新しい発見をする「リアルタイム学習」が必要ではないでしょうか。 2011年 11月 01日
![]() (先月から日刊サンにてコラムを書かせていただいています。「様々な違いを乗り越えて行こう」ということをテーマに毎月の最後の土曜日に載せていただいています。) 現在1歳と2ヶ月になる我が娘は、日本人の母親と韓国人の父親の間に生まれた子どもとは思えないほど色白です。先日定期検診に行った時のこと。妻が娘を抱いて順番を待っていると、隣で待っていた日本人のお母さんが娘を見て「あら、白い!ハーフですか?」と。妻はちょっと言葉に詰まりながらも「いいえ」と答えたそうです。韓国人と日本人の子供だから確かにハーフだけれども、その質問の中に省略されていた「白人との」という人種的な側面からいうとハーフではないわけですね。 そもそも日本人と外国人の親の間に生まれた子供のことをなぜハーフというようになったのでしょう? 「ハーフ・半分」という言葉そのものの持つイメージは、中途半端、不完全、不足といったようなネガティブなものばかりに思えます。 けれど、実際には、 カレーライス、クッキー&クリーム、ジントニックのように違う二つの成分や性質のものが一つになって、さらに魅力的になったケースが、私達の周りに数え切れないほどあります。二つの要素が一つとなってそれぞれが別々だった時より二倍以上の力を発揮することからいうと、文化や人種が異なる親の元で生まれた子供を「ハーフ」ではなく「ダブル」と呼んでもよいのではないでしょうか。 二倍や二重などを意味する「ダブル」は、この文脈において二つのルーツを受け継ぎあわせ持っている人のことです。二つが合わさってそれぞれが弱まり、半減して一つに収まったような様子ともとれる「ハーフ」とは違って、「ダブル」は両方の良さを損なうことなく互いが引き立てられ、生き生きと両立しているポジティブなイメージなのです。たかが呼び名ひとつであっても、意識的にポジティブな言葉を選んで使うことで私達の意識に及ぼすポジティブな影響はいうまでもありませんし、ましてやそう呼ばれる子供達にとってはなおさらだと思います。 たまたま日韓ダブルの娘がいる我が家の他にも私達のコミュニティーには、日米ダブルをはじめ多様なダブルの子供を持つ家庭がたくさん存在することだろうと思います。「ハーフ」を「ダブル」と言い換えるだけで、互いのルーツをリスペクトし、祝い、喜ぶことができてしまうこのムーブメントに、一人でも多くの人にぜひとも仲間として参加して欲しいものです! 2011年 05月 10日
![]() 4月5日 仙台から夜行バスで東京入りし、その足で成田に向かった。なんという濃密な時間だったのだろう。たったの一週間の旅路がまるで一か月以上のように感じられる。空港行きのバスの窓から目に入る平凡な町並みを眺めていると、被災地でみた地獄絵がまるで夢のように思えてくる。 いや、やはり地獄は在った。無残にもなぎ倒されたかつての人間の住処を確かに見た。非情にも引き裂かれ押しつぶされた人々の叫び声を確かに聞いた。自然の猛威の前では何一つ成す術のない人間の脆さ、その不条理な現実、絶対的な絶望を確かに私は目の当たりにしたのだ。 しかし、それだけではなかった。そこには希望もあった。被災した者が自分を顧みず他の被災者のために救援活動に立ち上がる勇姿、被災者の中でも忘れ去られやすい弱者を助けようとするその優しい手、それらの希望ともいえる光を、私は民間団体の人々から確かに見ることができた。 来る4月30日にはUTBで私達が出会った民間団体についての特別番組が放送される。与えることで逆に与えられ心が喜びと希望に満たされて行く人々の姿をぜひ観ていただきたい。そして、暗闇の中に灯されたそれらの光を守るために、今度は私達が彼らを支援したいと願う。与えることで与えられる希望、勇気、喜びこそが日本を再建するための一番大切なものではないだろうか。 2011년 4월 5일 센다이에서 야행버스로 동경으로 돌아와 그 길로 나리타 공항으로 향했다. 너무도 농후한 시간이었다. 단 한주간의 여정이 마치 한달 이상처럼 느껴졌다. 공항행 버스의 창밖으로 보이는 평범한 풍경을 보고 있노라면, 수해지에서 본 지옥그림이 꿈과도 같이 느껴진다. 하지만 역시 지옥은 존재했다. 무참하게도 쓰려뜨려진 한때는 인간의 거처였던 건물들을 보았다. 비정하게도 찢겨져서 으깨어진 사람들의 비명을 확실이 듣을 수 있었다. 자연의 맹위 앞에서는 아무것도 할 수 없는 인간의 무력함, 그 부조리한 현실, 절대적인 절망을 내 두 눈으로 똑똑히 본것이다. 하지만 그것이 전부는 아니었다. 거기에는 희망 또한 있었다. 수해를 입은이가 자기자신은 아랑곳하지 하지 않고 다른 수해자들을 돕기위해 일어나는 용감한 모습, 수해자들 가운데서도 잊혀지기 쉬운 약자들을 도우려고 하는 착한 손길, 희망이라고 할 수있는 한줄기 빛을 필자는 민간단체의 한사람 한사람을 통해서 볼 수 있었다. 한일협회는 장기적이고 지속적인 모금운동을 통해서 이 두 민간단체를 지원해 간다. 암흑과 같은 절망속에서 생겨난 한줄기 희망이 지키지기 위해서는 우리 한사람 한사람의 지원을 꼭 필요로 한다. 주는 것으로 인해서 반대로 주워지는 희망과 용기 그리고 기쁨이야말로 일본의 수해민들뿐만이 아니라 지금의 우리에게도 꼭 필요한 것이 아닐까. 2011年 05月 10日
![]() 4月4日 仙台市の繁華街を眺めている限り震災の傷跡は見えない。しかし、毎朝高速バスターミナルには大きなスーツケースを持った人々の長蛇の列ができる。放射能、頻発する余震への恐怖、その他それぞれの異なる理由を胸にみんな仙台を後にしているのだ。 しかし、そんな仙台に大震災直後からわざわざ通い始めた人がいる。東北被災者支援センターの片岡謁也牧師である。彼は会津若松教会の牧師業のかたわら、仙台に通って被災者支援に当たっている。センターでは震災後の救援において行政や民間から忘れられがちな高齢者、身体障害者、言葉の不自由な外国人労働者を対象に物資を届けた。 そして今では全国各地から来てくれた若いボランティア達が自転車で1時間をかけて荒浜という地域を支援している。そこには津波だけでなく、その後の盗難や詐欺などの被害にもあった高齢者の人々がいる。ボランティア達はそれぞれの家の中のヘドロを取り除くだけではない。傷ついた被災者の話しに耳を傾け、その心の傷にも優しく触れているのだ。 傷ついた者も寄り添う者もお互いが癒されて行く、新しい人間同士の関わりに触れたような気がした。 2011년 4월 4일 센다이시의 번화가를 보고 있는 한 지진이 남긴 상처는 찾아 볼수없다. 그러나 매일 아침 고속버스 터미날에는 커다란 여행용 트렁크를 가진이들이 장사진을 치고 있었다. 방사능, 빈발하는 여진의 공포, 그 밖에도 각각의 자기만의 이유를 가슴에 다들 센대이를 떠나고 있는 것이다. 하지만 그러한 센다이에 지진직후부터 일부러 왕래하기 시작한 사람이 있다. 동북수해자지원센터의 소장 카타오카 에츠야목사다. 그는 아이즈 와카마츠 지역에서 목회를 하고 월요일에는 차를 몰아 센다이로 향한다. 센터에서는 지진후 정부와 구제단체에게 잊혀져버리기 쉬운 노인, 신체장애자, 언어의 장벽을 가진 외국인 노동자등을 위해서 구원물자를 배부하기 시작했다. 그리고 지금은 전국각지에서 온 젊은 볼런티어들이 한시간이나 자전거를 달려서 아라하마라는 지역을 지원하고 있다. 그곳에는 쓰나미뿐만이 아니라 그후에 일어난 여러 도난과 사기등의 피해를 입은 수해민들이 있다. 볼런티어들의 일은 각 가옥을 뒤덮은 쓰나미의 침전물을 제거하는 것 뿐만이 아니다. 수해자들의 말에 귀를 기울이고 그 마음의 상처도 따뜻하게 어루만지고 있는 것이다. 상처입은 이와 그 아픔에 함께하는 이가 함께 치유되어 가는 사람과 사람의 새로운 관계를 느끼고 체험할 수 있었다. 2011年 05月 10日
![]() 4月2日 8時間もバスに揺られて仙台市に着いたのは午後3時を少し回った頃だった。 迎えに来てくれたのは櫻井勇太君(23歳)である。彼の率いる「東日本大震災支援会」は、支援物資を調達して被災地の避難所に運んでいる。 彼は輸入車販売業を営んでいたが、震災によって商品である車が全て流された。これを機に、もっと大変な状況にいる被災者を支援しようと、自社のトラックに支援物資を積んで石巻、女川、名取市、気仙沼に出かけた。現在は会社のスタッフ、同業者、取引先からのボランティアなど8〜9人がチームを成して2、3台のトラックで救援活動にあたっている。 櫻井氏によると、被災地の奥に行けば未だに県庁が把握していない小さな避難所(5〜6人から50〜60人)が数多く孤立しているという。彼は自らの活動の理由を、「被災者達に笑顔と勇気と希望とを届けるために頑張っている」と答えた。 しかし彼と一緒に被災地を回った筆者は、もう一つの理由に気づいたような気がした。それは自分が誰かのために役に立っている、誰かに必要とされているという実感である。私達の生活の中で、自分は誰かに必要とされているという明確な実感はあるのだろうか。勇太君は笑顔と勇気と希望を被災者達に届けているのと同時にそれらをもらって帰って来ているのではないか。 2011년 4월 2일 8시간이나 걸려서 센다이시에 도착한 것은 오후 3시를 조금 넘은 시각이었다. 마중 나와 준 이는 사쿠라이 유타씨 (25세) 로 그가 이끄는 “동일본 대지진지원회”는 구원물자를 조달해서 수해지 각처로 나르고 있다. 지진이 났을때 그는 수입자동차 판매업체를 경영하고 있었고 쓰나미로 인해서 상품인 자동차가 모두 떠내려가 버렸다. 그는 그것을 계기로 자신보다 더 많은 피해를 입은 수해자들을 돕기 위해서 자사의 트럭에 구원물자를 이시노마키, 오나가와, 나토리시, 케센누마등 최악의 피해를 입은 수해지로 실어 나르기 시작했다. 현제는 자사직원, 거래처등의 볼런티어들로 조직된 8~9명이 한조를 이루어서 2~3 대에 트럭으로 구제활동을 전개하고 있다. 사쿠라이씨에 의하면, 수해지안으로 깊이 들어가면 아직 현청에서도 파악하지 못해 고립되있는 작은 피난소 (5,6명에서 50, 60명까지) 가 많이 있다고 한다. 그는 자신들의 활동의 이유를 “수해민들에게 웃는 얼굴과 용기, 그리고 희망을 전해주기 위해서” 라고 했다. 그러나 그들의 구제활동에 잠시 동참한 필자는, 또 하나의 이유가 있는 것 같이 느껴졌다. 그것은 자신이 누군가의 도움이 되고 있다는 확신이 아닐까 생각한다. 지금 우리들의 생활에 있어서 누군가가 자신을 절실하게 필요로하고 있다는 확실한 실감을 가질 수 있을까? 사쿠라이씨는 웃는 얼굴과 용기 그리고 희망을 수해민들에게 전해줌과 동시에 그것들을 자신도 얻어 돌아가고 있는것이 아닐까. |
アバウト
・作者 金 泓善(キム ホンソン) ソウル生まれ。宣教師であった両親と共に、中学二年生の時に来日。近江兄弟社中学校・高校、関西学院大学神学部卒業後、兵役のため韓国に3年弱滞在。その後アメリカへ大学院留学を経て(社会福祉専攻)、現在は平日ソーシャルワーカーとして働くかたわら、週末は牧会に従事している。 2008年8月、非営利団体「日韓協会(Japan Korea Society)」を設立。 特技は料理、ブルースギター、射撃。 ・教会のホームページはこちらをクリックしてください。 ・公序良俗に反するなど、不適切と判断した書き込みについては予告無く削除する場合がありますのでご了承ください。 検索
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